美鶴は一口啜る。
瑠駆真は、再会した次の日にもやって来た。
母に依頼されたとかいう理由で、護衛よろしく美鶴の下校に付き添った。美鶴をあのボロアパートに一人にしておくわけにはいかないと言って入ってきた。コンビニで下着を買ったという瑠駆真の発言に軽く誤解した美鶴を、悪戯っぽい瞳で笑った。笑われた事に腹を立てた美鶴は喚きちらした。さんざん罵倒して疲れ果てたところで、瑠駆真が小さく囁いた。
「本気だよ」
あの時もそうだった。あれ以来にも、瑠駆真の小さな一言に言葉を失う事が何度もあった。
瑠駆真の声には、小さくとも聞き逃す事を許さない力がある。
そうだ、あの時もそうだった。母が帰ってくるまで本気で居座ると言い張る瑠駆真に、なぜそこまでしてくれるのだと美鶴は聞いた。
瑠駆真は答えた。
「君のことが好きなんだ」
美鶴は、マグカップを唇に押し当てた。
信じられなかった。とても本気だとは思えなかった。嘘だと思った。からかわれているのだと思った。
あの時は、それこそ本気でそう思っていた。
では、今は?
「で? あんな雨の中、何をしてたの?」
ハッと我に返る。見上げる先で、瑠駆真が静かにこちらを見ている。
咎めるような素振りはない。絶対に聞き出してやろうといった気構えも感じられない。だが、美鶴の一言二言に言い含められ、押し黙ってしまうとも思えない。
結局美鶴は、何も答える事ができぬまま、再び視線を瑠駆真から外した。
別に、瑠駆真に話すような内容ではない。私の生い立ちなど、瑠駆真には関係ない。
言い聞かせながら、心のどこかが惨めに感じる。
なぜ自分の出生は、サラリと口に出して他人に告げる事のできないものなのだろうか?
普通の人ならば、小さい時の出来事や両親から聞かされた自分が産まれた時のエピソード、名前の由来やどこの病院で産まれたのか、家族との思い出など、聞かれれば特に隠す事もなく話すものだ。話せるものだ。
他人には関係のない事だろうが、聞かれれば口を閉ざす必要もない。なのになぜ自分は、瑠駆真には関係ない、と言い訳を作ってしまうのだろう。
理由はわかっている。とても、人に話せる生い立ちではない。
いいじゃないか。何をいまさら恥じるのだ。もともと自慢できるものなど何も持っていないのだ。望まれなかった生い立ちを知られたところで、何の恥になる。
いくらそう言い聞かせてみても、口を開く事ができない。
結局は瑠駆真と顔を合わせたくなくて、美鶴はそっぽを向いた。向いた先には灰色のテレビ画面。無情にも、画面に瑠駆真の顔が映る。
綺麗だ。
美鶴は奥歯を噛み締めた。
瑠駆真は綺麗だ。自分なんかよりもずっと綺麗だ。綺麗な瞳で、自分の後頭部を見つめている。
何の不自由もなく、何も恥じる事のない環境に育った少年。母親とは確執があったようだが、今はもうこの世にはいない。
幸せだ。瑠駆真は幸せだ。
そう思うと、美鶴はなぜだか泣きたくなった。
泣くもんか。なんでこんなところで泣く必要がある。
澤村にフラれて里奈に裏切られたと思った時から、何があっても泣いたりはしないと決めたのだ。なぜならば、もともと世の中なんて、とんでもないくらい非情で、無情なものだから。
それが当たり前の事なのだ。だから、だから寂しさや虚しさなんてものは当たり前の事で、だからそのようなモノにいちいち涙を流す必要などないのだ。無意味なのだ。
そうだ、どうせ自分は零落れた環境から抜け出す事のできない性なのだ。
「美鶴」
「うるさいっ」
瑠駆真の声に憐れみが含まれているかのようで、美鶴は遮るように激しく怒鳴った。
「あんたには関係ないっ」
「美鶴」
「あんたには関係ないって言ってるでしょっ!」
いきなり声をあげる相手に瑠駆真はやや面食らったようだが、ふとテレビ画面に映る美鶴の視線とぶつかり、そのまま口を閉じた。
「っ!」
灰色の画面越しに自分の中身を見透かされたかのような気がした。思わずリモコンを手に取り、電源を入れた。
今朝、美鶴が家を出た後に起きてきた母がテレビを観ていたのだろう。飛び出してきた大音量に二人は思わず仰け反り、美鶴が慌てて音量を下げる。
あの女は、どんな時でもしっかり存在を残していくな。
ヘンなところに母のたくましさを実感し、同時に疲労も感じた。
映し出されたのは何の番組なのか。もともと何か観たいものがあったわけではない。チャンネルまで変える気力はなく、そのままリモコンをテーブルへ放り投げてしまった。
瑠駆真は、何も言わない。
彼らしいと思う。もしこれが聡だったら、納得するまで食い下がってくるだろう。
あれこれと質問されるのは鬱陶しい。瑠駆真の態度はありがたいと思う一方、だが気分は休まらない。
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